就職に伴う新居への引っ越しの折、するかしないか悩みに悩んで、せめて両どなりにはと菓子折りを片手に挨拶に伺ったら、ドアの向こうに立っていたのが高校時代の元カノだったから、俺は両目が飛び出るかと思うほど驚いた。
「お、おう」
とにかく毅然とした態度を見せなければと必死に絞り出した言葉がこれだった。何がお、おうだ。
次の瞬間、彼女は勢いよくドアを閉めて、しかもわざとやってるのかと思うほどしっかりと施錠の音を響かせてきた。
「えぇ、なんで!?」
思わず口走る。そりゃあ当時の俺は彼氏として至らない点が多々あったとは思うけど、別れるときは一応、お互いが合意の上で円満に終わったはずだった。
だから、ドアが開いた時も自分の目を疑ったが、ぴしゃりと閉められた時はそれ以上に目を疑った。拒絶される理由がわからなかった。何より、今の反応はかなりショックだった。
どうすればいいのかわからずその場に佇んでいると、ぶるっとスマホが振動する。
「どうやって私の住所がわかったの?」
画面には美咲の名前があった。別れて以来、一度も目にすることのなかったアカウントだ。メッセージをタップしてトーク画面へ行くと、すぐその上にはかつて別れ際に送った長文のやり取りが続いていて、胸がチクリと痛くなるから、できるだけそちらには目を向けないようにして返事を打った。
「違う、勘違いだ。俺はただ引っ越しの挨拶に来ただけだ」
「引っ越し? このマンションに引っ越してきたってこと?」
「そうだ」
「何号室よ」
「503」
「うそでしょ? 私のとなりじゃない!」
「そうだよ。だから俺もさっき死ぬほどびっくりしたんだ!」
そこで返信が途絶えた。どうしたのかとしばらく待っていると、やがて解錠の音とともにドアが開いた。
「……久しぶり」
彼女はまだ納得いかないという表情だ。
「ああ、久しぶり」
それから何も言うことが思いつかなくて内心、焦った。とりあえず手に持っていた菓子折りを差し出す。
「これ、ちょっとした物だけどよかったら」
「意外に礼儀正しいのね」
ドキリとする。その言葉には非難の気持ちが込められているのだろうか。
「ま、まあな」
「ありがとう。あとさっきは誤解してごめんなさい」
彼女は深々と頭を下げた。
「いや、あの状況だったらそう勘違いしてもおかしくないよ。俺こそ驚かせてごめん。その、これからよろしく」
「うん、よろしくね」
彼女は少しだけニコリと笑うと、それじゃあと言ってドアを閉めた。
それからの日々、俺は家を出るたび帰るたび、美咲と出くわすのではないかと内心ビクビクしながら過ごしていたが、どうやら2人の生活時間には微妙にズレがあるらしく、彼女の姿を見ることはなかった。
引っ越しから1週間が経ったころ、必要な家具が大方揃ったのに伴って、家の中にある段ボールやら発泡スチロールやらの容器包装を大量に処分しなくてはならなくなった。
ちぎってまとめて市が指定する有料ゴミ袋に詰め込んで、どうやら俺はこうした細かい作業が苦手なようで、詰め込み終わったあとには45リットル袋が丸々5つも部屋の中に転がっていた。
「意外に重いな……」
右手に3つ、左手に2つを引っ提げて階段を下りる。エレベーターに乗ろうとしたらすでに人がいたから、諦めて階段を使うことにしたのだ。
途中で足を取られそうになりながらもなんとか3階まで降り切る。その時、ちょうど下から上がってくる美咲と目があった。
「あっ」
しまった、とでも言うように2人の口から同時にその言葉が飛び出した。どうしようかと悩んだが、すぐに美咲の方から話題を振ってくれた。
「そのゴミどうしたの?」
「色々買ってたら入れ物の段ボールとか発泡スチロールとかがね。そっちは仕事帰り? てか、階段使うんだ」
俺の質問に彼女はふふっと笑った。
「え?」
「いや、達也は前から一度に何個も質問する癖あったなと思って」
「ああ、そう言えばあの時はそれで怒られたよな」
つい当時のことを話したが、そうすると何だか一気に気まずくなってどちらとも黙ってしまった。
「なんか、ごめんなさい」
彼女が謝りだしたから、これはいけないと慌ててごまかす。
「いや、え、何が?」
「なんか、うん、何となく。あっ、それで今は仕事帰りよ。階段はいつも健康のために使うようにしてるの」
「あ、あーね! お疲れ様! ちゃんと健康に気を遣ってるなんて偉いな」
とりあえずちょっと大げさに反応した。それからまた次に言うことがなくなってしまった俺は「それじゃあまた」とできるだけ愛嬌のある笑顔を振り撒きながら彼女の横を通り過ぎる。
「あ、あのさ」
ちょうど最後のゴミ袋が彼女の体を横切ったところでそう呼び止められた。
「ん?」
「運ぶの手伝うよ。この前、お菓子くれたし」
予想外の申し出に胸が高鳴る。
「まじ? めっちゃ助かる。ありがと!」
ゴミ捨て場までの道のりは、彼女と話す話題を必死であれこれ考えながらできるだけゆっくり歩くことにした。
その日から、俺たちは少しずつ会話をするようになった。お互いに食材が足りなくなった時は相手に助けを求めに行くし、たまにどちらかの家にお邪魔して一緒にゲームをすることもあった。
引っ越しから1ヶ月が経ったある日の夜、眠りにつこうとベッドの中に入り込んだ瞬間にドンと鈍くて大きな音がした。どうやら美咲の部屋の玄関から聞こえたように感じる。
俺は何だか心配になって様子を見に行くことにした。玄関のドアを開けて外廊下に出ると、美咲が彼女の部屋の前でうずくまっているのが見えた。
「おい、大丈夫か?」
「うぅ、鍵が見つからない……」
飲み会の帰りだろうか、彼女はひどく酔っているようだった。すると、突然、口元を抑えだす。
「う、気持ち悪い……」
「おいおい」
「トイレ貸して」
そう言うと、こちらの返事も待たずに電光石火の動きで俺の部屋に入っていく。俺は置き去りにされた美咲のビジネスバッグを運ぼうと持ち上げてみると、その下から彼女の部屋の鍵が出てきたから呆れて大きなため息をついた。
20分後。出すものを出したら具合が良くなったらしく、いつもの血色に戻った美咲は床に正座して頭を下げてきた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「いや、いいよ。会社の飲み会?」
「ううん、友達と飲んでたんだけどちょっと飲みすぎちゃって」
「意外に飲むんだな」
「まあね、あの頃からじゃ想像つかないでしょ?」
「あの時の美咲は真面目だったもんな」
「達也が適当過ぎたのよ」
俺たちは顔を見合わせてふふっと笑い合った。今はもう過去のことを話しても重い空気にはならない気がした。
「なあ、今さらだけど1つ聞いていいか」
「うん。どうしたの?」
「あの時、どうして別れてくれって言った?」
当時の俺は美咲の申し出をすんなり受け入れることが男らしさだと思っていたから、理由も訊かずにあっさりとそれを受け入れてしまった。そして、別れてから1日と経たないうちに、理由を訊かなかったことを痛烈に後悔した。
後悔してから1日と経たずに、それが実はまだ美咲と別れたくなかったからなのだと気付いた。俺は人知れず号泣したのだった。
「だって、あの時の達也って全然私のことを優先してくれなかったじゃない」
「ごめん。その、恥ずかしかったんだ。何か彼女に惚れ込んでるって友達に思われたくなかったし、自分から美咲に好意を見せるのも照れ臭かった」
俺が正直に話すと、美咲はしばらく黙ってから意を決したように頷いた。
「でも、私はきっとそんなことだろうってわかってたの」
「え?」
「わかってたけど納得できなかった。私のことを中心に置いて欲しいって思ってた。別れようって言った時もね、本心じゃなかったの」
「本心じゃない?」
「私の大切さを思い知りなさいと思って言ったら、あっさりとわかったなんて言うんだから、逆に傷ついたわ」
「そんな、俺だって別れたくなかったんだよ。でも、美咲が別れたいっていうなら男らしく受け入れようって。それで、すぐに馬鹿なことしたって思った」
「お互いもっと自分の気持ちを素直に伝えられてたら、もう少し上手くいったのかも知れないね」
「……そうだな」
「ねぇ、あの時にしようと思ってできなかったこと、今してもいい?」
美咲が真っ直ぐにこちらを見つめて言った。俺にはそれが何なのか大体の見当がついた。
こくりと頷くと1歩2歩と美咲へ近づく。目の前まで行って座ると、俺は少し顔を下げてまた美咲の顔に近づいていった。
「何やってるのよ!」
美咲は両手を伸ばして俺の顔を遠ざけた。
「え? え?」
「ハグよハグ! なに勘違いしてんの!」
「えぇぇぇ、今のハグ? キスじゃなくて!?」
「キスは付き合わないと嫌!」
「ここまで来たら付き合うつもりに決まってるだろ!」
「え? え?」
今度は美咲が困惑したようだった。
「そりゃそうだって! もう一度、次はもっと素直になるから、俺と付き合ってくれないか?」
彼女は驚きのせいかしばらくポカンとしていたが、やがて「うん」と大きく頷いてくれた。
【終わり】