大学1年の夏休みを利用して、友達と一緒に遠路はるばる離島まで旅行にやってきた。
フェリーに乗ること5時間。海の水は限りなく透明に近く、山は怖いくらいに緑が深く雄大で、遮る建物がない空はどんなに首を捻ってもその端から端を視界に収めることはできなかった。
澄んだ空気を肺いっぱいに入れて、これから始まる3日間の冒険に期待を膨らませながら、とりあえず荷物を置きにとホテルへ向かったところで、俺は強烈な腹痛に襲われ出鼻をくじかれた。
「くそ、なぜだ……、なぜこんなことに……」
ホテルのベッドで呻く俺の姿などまるで見えていないかのように、長い旅路を共にした友人2人は楽しそうに出かける準備をする。
「お前ら、俺を置いていくというのか……」
「そんなこと言われてもなぁ。せっかくここまで来たし」
「ま、これも運が悪いか日頃の行いが悪いかってことで。すまんけど俺たちは出ていくよ。レンタカーも予約してるしな」
「くそぉ……呪ってやる。呪ってやるからなぁ……」
わざとやっているのか、やつらは支度を済ませると鼻歌を歌いながら上機嫌に部屋を出て行った。
俺は観念してぼんやりと天井を見上げる。せめて明日。この腹痛もどうか明日までには治っていてくれ。そう祈りながら目を閉じた。
ふと目を覚まして時計を見ると、夕方の4時を回ったところだった。どうやら2時間ほど眠っていたようだ。
まだ少し違和感はあるが、幸いなことにもうほとんど腹の痛みは消えていた。あいつらが帰ってくるのは恐らく日没の7時ごろ。まだ3時間も時間がある。
せっかくだから俺も外に出て、この近くを散歩してみようと思った。どうせホテルにいてもテレビを見る他にすることはないのだ。
リュックを背負ってホテルのロビーを出る。しばらく大通り沿いに進むと橋が見えてきた。島の中には至る所に大小様々な用水路が張り巡らされていて、その分、橋もたくさん架かっている。
10メートルほどの橋を渡りきると、今度は左に曲がって、ちょうど横断したばかりの水路に沿って歩いてみた。あたりは住宅地のようで、木造の一軒家がずらりと並ぶ光景には昭和の町並みのようなレトロな雰囲気があった。
水路には、恐らくボートに乗降するためのものだと思われる、木製の何とも心もとない小さな桟橋が作られていた。
板を踏み抜かないよう注意しながら桟橋の先まで行って腰を下ろす。ふぅと一息ついてあたりを見回した。人影はなく、水の流れる静かな音が聞こえるだけだ。よく見ると水中にはまばらに魚が泳いでいる。これはこれで贅沢な時間かもしれない。
「そこ危ないよ」
ふと声が聞こえて後ろを振り返った。女性が桟橋のたもとに立っている。
「木が腐りかけてきてるから下手すると水にドボンかも」
「ええっ!?」
そう言われると急に怖くなって、俺は腰を低くしながらそろりそろりともとの歩道まで戻る。その姿を見た彼女は声に出して笑っていた。
「ごめんなさい、その、おかしくてつい」
「……いいですよ。何にしろ忠告してくれてありがとうございます」
女性は自分より少し年上に見えた。褐色に焼けた肌をしていて白いブラウスに麦藁の帽子を被っている。もしかして……。
俺が訊こうとする前に彼女が口を開いた。
「君は旅行で島に来てるんだよね? 見ない顔だから」
「そうです。ってことは、やっぱりあなたは島の人ですか」
「そうだよ。今は別のところに住んでるけど、実家がここで帰省中なの。よくわかったね」
「何となくそんな気がしました」
そう答えると、彼女はじろっとこちらを睨んでくる。
「それって、私のことバカにしてる?」
「えっ!? 違います、違いますよ」
慌てて誤解を解こうとすると、彼女はまた笑い声を上げた。
「あはは、ごめん。冗談よ」
「は、はぁ」
このやけに距離感の近い女は何を考えているのだろう。そう言えば、ここの人たちはまったく知らない俺たちにもすれ違うたびに「こんにちは」と挨拶をしてきた。この島ではこれが普通なのだろうか。
「それで、どうしてこんなところまで一人旅に?」
「実は、もともと一人じゃなかったんですけど……」
今の状況を説明したらきっとまた俺は笑われてしまうだろう。そう思いつつも、一応、正直に事の顛末を伝えてやると俺はやっぱり笑われた。
「あはは、面白いね」
「何も面白くないですよ。おかげであと2時間は暇だし」
「じゃあせっかくだし私と散歩しようよ。ここら辺なら案内できるよ」
これが都会の街中とかだったら警戒したんだろうけど、この島ではきっとそんなに驚くようなことじゃないんだろうし、何より彼女が何か悪いことを企んでいるようには見えなかった。
少し考えたあと、俺はぜひとお願いすることにした。
「……思ったよりきついですね」
彼女に案内されるがままひたすら道沿いに歩いてきたけど、山が多いせいで道も起伏が激しく、わずか30分ほどのウォーキングでも疲労が骨身に応えた。
「えっ、もうバテちゃったの?」
さすが島育ちというべきか。彼女はまだピンピンしている。
「大学に上がってからまったく運動してません」
「あはっ、じゃあいい機会になったんじゃない?」
「わざわざ観光先でしなくてもよかった気がします」
「それは観光先以外ではちゃんと運動してる人が言うセリフだね」
残念ながらそれは正論だ。
「まっ、もうすぐ着くから。それに帰りはもっと平らな道を使うようにするから頑張って!」
「ありがとうございます」
せっかく案内してもらってるんだから文句ばかり垂れ流しても失礼だ。足に気合いを入れて、地道に歩を進めた。
それからさらに15分ほど歩いて、ようやく俺たちはある神社の鳥居に辿りついた。
「これは玉若酢命神社。島にある三大神社の1つだよ。観光客にも人気だからきっと君の友達も来たと思うな」
参道は短く、鳥居から本殿までの様子がばっちり見える。塗装はされておらず、全体が木材の灰色に統一されているから、正直そこに華やかさはなかった。
ただ、素朴な本殿の前には目を引く巨大な注連縄が付けられていて、それが周囲の自然と合わさって、神社全体には特有の厳かさが感じられた。
「なんか神秘的な感じだ」
「おっ、気に入ってくれたんなら嬉しいよ」
彼女は冗談めかしたように得意げな笑顔を向けてくる。どうだ、いいところに案内しただろう、と言われたようでちょっと悔しかったけど、俺は素直に彼女の笑う顔は素敵だと思った。
神社でお参りをした後は、傾斜のゆるやかな大通りをゆっくりと歩いて帰っていく。
「ねぇ、神社で何をお願いしたの?」
彼女が楽しそうに尋ねてきた。
「別に大したことじゃないですよ」
「さては彼女が欲しいとかかな?」
「違います」
「えっ、なんで願わなかったの?」
「いや、なんでいないこと前提なんですか!? いないけど」
「今から戻ってお願いし直してもいいけど」
「結構です。そういうあなたは何を願ったんですか?」
「君がこの島を楽しんで帰ってくれますようにって願ったよ」
彼女には、洗練されていない純朴で不思議な魅力がある。
俺たちは1時間ほど歩いて、ようやくもといた桟橋の前まで戻ることができた。
「それじゃあそろそろお別れだね」
「本当にありがとうございました。とても楽しかったです」
頭を下げる俺に彼女は「そんなことしなくていいよ」と制止して顔を上げさせる。
「ところで、ここの人って観光客を見るたびにわざわざ案内してくれるものなんですか?」
「さすがに普通はそこまでしないよ。実はね、同年代の人を見つけてちょっと嬉しかったんだ。友達はもうみんな島の外に出ちゃってなかなか帰ってこないから」
そう言って、急に寂しそうな顔を見せてきたから俺はどぎまぎしてしまう。
「ねぇ、連絡先交換しようよ」
「あっ、はい。もちろん」
俺がQRコードを出して彼女がそれを読み取る。
「へぇ、遠野くんって言うんだ」
「あれ、自己紹介しなかったでしたっけ?」
「私だけね。君は教えてくれなかったから警戒されてるのかと思って寂しかったんだよ?」
「いや、単純に気が回ってなくて、すみません」
「それならよかった。じゃあまたね、遠野くん」
彼女は笑顔で手を振りながら、家と家の間を通る細い道の中へと消えていった。
そう言えば、雰囲気で何となく敬語を使っていたけど、結局のところ彼女は年上なんだろうか。まあ、あとで訊いてみればいいか。
島を離れる前にもう一度、彼女と会えたらいいな。そう思いながら俺はホテルに帰った。
【終わり】